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2ちゃんねるのまとめさいと
2008年06月24日 (火) | Edit |

  • 編集元:軍事板より「元北千島占守島第九一師団だけど聞きたいことある?

    1 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 19:32:01 ID:mkR968jk

    大日本帝国最後の戦闘に参加した俺が何でも答えるよ。
    シベリア抑留についてもおk

    ちなみにこの書き込みは祖父(86)と孫のコラボレーションでお送りします。

    5 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 19:52:12 ID:???

    どの部隊に所属していたの?
    兵科は何?
    階級は兵? 判任官? 奏任官? 勅任官?

    それがわからんと質問できん


    北千島占守島第九一師団第一砲兵隊第二中隊所属
    階級は軍曹っす。

    あ、いま確認したら判任官だって。スマソ

    8 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 20:06:05 ID:???

    いや軍曹は判任官だからどっちも正しいよん

    質問
    有名な戦車第11連隊とは一緒に戦いましたか?

    つうか第1砲兵隊は師団直轄だったの? それとも73旅団直轄?
    編成がよくわかりません。

    質問その2

    WIKIによると
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A0%E5%AE%88%E5%B3%B6
    ・日本軍の兵士はノモンハン事件やガダルカナル島の生き残りが多く経験、士気が高かった。

    とありますが、お祖父さんはノモンハンやガダルカナルの生き残りですか?


    1.戦車第十一連隊とは同一行動はとりませんでしたが、陣地に入っていました。
    2.第一砲兵隊は73旅団直轄でした。

    昭和15年2月~昭和18年3月まで満州牡丹こうしょうすいようけんすいせい(漢字が出てこない)に駐屯、北部二十部隊でした。

    11 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 20:21:23 ID:???

    どうもありがと

    質問その3
    お祖父さんは、どのような砲を扱ってましたか(例 92式10cm加農砲)、もしくは砲兵隊の
    なにを担当してました?


    内地では第八師団野砲八連隊でしたが、満州では北部二十部隊と称しました。
    中隊は三八式野砲。担当は通信です。

    19 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 20:37:56 ID:???

    通信ならばの質問

    有線、無線、信務のどれを担当してました?


    「有線です。しかし占守島では実際の戦闘にも参加しました。」



  • 15 第一砲兵隊 ◆Gdq4ZoFWsE :2006/07/30(日) 20:30:03 ID:mkR968jk

    祖父がいろいろ言い始めたので独り言モードでちょっと書きます。
    ボケてはいないのですが、いまいち掲示板のシステムが分かっていないもので。

    「昭和18年3月除隊し、昭和19年6月召集、北千島へ派遣されました。」

    17 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 20:34:24 ID:???

    >>15
    第8師団つうことは、弘前の野砲兵連隊ですか
    粘りの東北人ですね。

    昭和19年に再招集されて、91師団に編成されて北辺の守りについたわけですか
    お疲れ様でした。


    「ありがとうございます」

    「昭和十五年二月から最初の3年間は満州の東部国境警備をしておりました。」

    16 第一砲兵隊 ◆Gdq4ZoFWsE :2006/07/30(日) 20:33:54 ID:mkR968jk

    「召集前から終戦まで青年学校の教職員でした。終戦と同時に新制中学校の教職員になりました」

    あと、質問は大歓迎ですので、よろしくお願いします。
    祖父はもう86でして、自分が体験したことを若い人に伝えたいと最近いうようになりました。
    いままではあまり戦争に行ったことを語ろうとはしなかったのですが・・・

    で、私が2ちゃんねるというところでいろいろ聞いてもらったらいいんじゃない?と言ったら乗ってきたのです。

    25 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 20:47:42 ID:???

    重い有線ドラムを抱えて敷設して走る通信の有線はとてもキツイ仕事ですね。
    さらに戦闘参加したとは、、

    北辺での戦闘では、どのようなことが一番印象深かったですか?


    「陣地の中に入っていたので、敵の上陸舟艇を監視し隊長に報告していました。」
    「こちらの洞窟から大砲を発射して、海岸へ到達するソ連の上陸用舟艇を撃沈しました」
    「私たちは陣地に入っていたので詳細は分かりませんでしたが、戦車十一連隊が陣地の南方において戦闘をしていたようです。」

    22 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 20:43:38 ID:???

    第8師団は昭和19年8月に、フィリピン決戦に向かい玉砕したわけだから
    お祖父さんが第91師団に派遣され生きて帰ったのは僥倖ですね……
    第5連隊では生存者6名とのこと。


    「除隊前の北部二十部隊もフィリピンへ行く途中で輸送船が撃沈されたらしいので幸運でした。」

    27 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 20:58:22 ID:???

    おおっと、竹田浜の地図をパソコンのどこかに置いてあるはずなのに見つからない!!
    結構昔に軍事板でアップされた奴なんだが…

    と思ったらあったーーー!

    質問
     ということは、お祖父さんは海軍片岡飛行場の北部に陣地を構えていたのですね?
    今井崎と潮見崎の間に

    28 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 21:00:39 ID:???

    >戦車十一連隊が陣地の南方において戦闘をしていたようです。」

    失礼、戦11の北方だから国端崎ですな


    「国端崎の灯台近くの陣地にいました」
    「ソ連の上陸舟艇が来たときは、濃霧のため最初はまったく見えませんでした。」

    どのくらいの濃霧かというと、立っている自分の足元が見えなかったらすい。

    31 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 21:07:06 ID:???

    国端崎付近ということは、ソ連軍が上陸して戦11や独歩282や独歩283と戦闘加入したころには
    完全に孤立してましたね。

    その時点で、竹田浜にはソ連軍の司令部が上陸していたようですが
    その時は何をしていました?


    「そのときは洞窟にこもっていたので、外部の状況はまったく分かりませんでした。」
    「濃霧でまったく見えませんでしたが、普段の訓練どおり海岸線に大砲を撃ち、上陸用舟艇を5・6隻撃沈しました。」
    「戦闘終結後、その場所を見たらソ連兵が何百人もごろごろ転がっていました」

    35 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 21:21:57 ID:???

    なるほど、濃霧だったのと洞窟陣地のおかげで反撃がなかったわけですか
    濃霧なのに上陸用舟艇を5・6隻撃沈できるとは、かなりの練度ですね。

    その後、停戦命令はどうやって確認しましたか?
    また、武器の破壊などは行ったのですか?


    「戦闘の際は1200発発射しました。普段は洞窟の整備と発射訓練ばかりでしたので的中率が良かったのだと思います。」

    「停戦命令は、部隊長がソ連軍の将校といっしょにきて叫んだので停戦したことが分かりました」
    「停戦後、武器本体の破壊はせず大砲の照準器をはずして洞窟を退去しました。」

    43 35 :2006/07/30(日) 21:34:29 ID:???

    1門で1200発ですか!! フィリピンに派遣された野砲兵が聞いたら羨望に焼けこげますね。
    戦闘は火力ですね、占守島の戦いは戦車十一連隊だけが戦ったように見られるけど
    やはり砲兵は戦場の女王ですね。


    「ソ連軍上陸部隊の大部分は軍司令部に向かいましたが、一部は国端崎へ攻撃してきました。」
    「国端崎を守備していた歩兵、速射砲、工兵の一個小隊が国端崎を死守していました。」
    「歩兵その他の面々は当初陣地外にいましたが、攻撃が激しくなってきたため、洞窟陣地内へはいりました」
    「彼らはその後陣地の何箇所かの入り口を死守しました」

    30 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 21:02:24 ID:Gc+d+LNV

    池田隊長は?どうしましたか?


    「池田隊長は将校部隊を編成してシベリアに抑留されました。」
    「私たちは武装解除後、カムチャツカへ連行されました。」

    40 35 :2006/07/30(日) 21:29:15 ID:???

    国崎崎に配備された部隊は、第1砲兵隊第2中隊だけだったんですか
    ほかの竹田崎や小泊崎、城ヶ崎などに配備された砲兵部隊はどうなったのでしょうか?


    「我々は正式の武装解除ではなく停戦後すぐに歩兵と速射砲と工兵の一部がソ連軍の輸送船に乗せられてカムチャツカの西海岸へ連行されたため他の砲兵部隊については分かりません」
    「総数は国端崎の守備についていた約130名です。」

    51 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 21:52:16 ID:???

    樺太では大規模な油田、天然ガス開発がロシア政府によって進められています。
    尖閣諸島・東シナ海油田と、樺太・千島列島。
    どちらをより日本政府に、重視してもらいたいですか?

    サハリン石油・天然ガス計画 露天然資源省「国家統制を検討」
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060527-00000014-san-int

    【用語解説】サハリン・プロジェクト
     ロシア・サハリン(旧樺太)北東部沖海底の大陸棚に広がる大型の
    石油・天然ガス田開発計画。現在、9つの鉱区に分けられている。
    中東へのエネルギー依存度低減を目指す日本は、半官半民のサハリン
    石油ガス開発がサハリン1、三井物産と三菱商事がサハリン2に参画。
    いずれもすでに石油などの生産を開始したが、事業費の拡大に伴い
    ロシアの税収増には貢献していない。中国も参画するサハリン3以降の
    開発は、ロシアの国営企業が主導する。
    (産経新聞) - 5月27日3時49分更新


    「樺太の北半分北緯50度以北はもともとソ連領でしたが、南半分は日本領でした。」
    「現在ロシアが開発を進めている油田は北緯50度以北にあるため、返還要求は出来ないと思います」
    「しかし、千島列島は日本固有の領土ですので返還してもらうべきだと思います。」

    「戦闘に参加したものとしては、北方領土に思い入れがありますので樺太・千島列島を重視してもらいたいところではあります」

    49 35 :2006/07/30(日) 21:49:25 ID:???

    なるほど国端崎陣地には、歩兵中隊の他歩兵、速射砲、工兵の一個小隊が守備していましたか
    そりゃ当然ですね。
    捕虜となったのが130名ということは、およそ半分近い方が命を落としたわけですね
    ご冥福を祈ります。

    お祖父さんが戦闘参加したのはこのときですか
    やはり三十八式歩兵銃で射撃したのでしょうか?


    「一個小隊が三八式野砲を発射してロシアの上陸を阻止していました。」
    「野砲隊に銃はまったくありませんでした」
    「しかし、戦闘中に陣地の近くに倒れていたソ連兵からマンドリンと呼ばれていた自動小銃を2丁鹵獲し、それで戦闘を行いました。」

    45 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 21:37:34 ID:???

    イギリスもフランスも植民地から撤退したのに
    シベリアに未だにロスケが徘徊している事について、
    感想してください。


    「樺太、千島をロシアが不法占拠していることに対してですが、現時点では武力を行使することは出来ませんので早急に平和条約を結んで外交交渉で取り返すしかないと思います」

    46 35 :2006/07/30(日) 21:39:08 ID:???

    お祖父さんはソ連のどこの港に連行されて、そのあとどの強制収容所に送られたのですか?
    ……いやな思い出ならば無視して下さい。


    「カムチャツカ西海岸のオバラという漁港に上陸させられ、カムチャツカ中心部で2年間重労働をさせられました。」
    「3年目にカムチャツカの軍港のペトロパブロフスクから乗船し樺太の真岡へ連行されました。」
    「樺太では1年間重労働し昭和23年10月に函館へ帰還しました。」

    53 35 :2006/07/30(日) 21:55:40 ID:???

    大変にお疲れ様でした。
    北辺の九十一師団の奮闘が、スターリンの北海道占領計画を遅らせ
    なんとか北方四島の占領と南樺太だけで終わらせることができたのは
    無名の幾千幾万の将兵の苦労があったことだと、一軍事マニアとして感慨深いものがあります。


    「そういって戴けると誇らしい気持ちになりますが、いまだに返還されないのはまことに残念であります。」

    48 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 21:44:59 ID:???

    シベリアでは元首相近衛文麿の嫡子で、優秀だった近衛文隆が殺されましたが
    知っていますか?


    「北千島へおったもので、シベリアのことは分かりません・・・」

    56 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 22:01:07 ID:???

    戦闘中に陣地の近くに倒れていたソ連兵から鹵獲した
    マンドリンを使って戦闘かぁ
    PPSh1941は射程が短いから、洞窟陣地近くでの接近戦ですね。
    すげぇ


    「洞窟入り口から攻撃されるのは大砲で防げないため、鹵獲したマンドリンで戦闘しました」

    俺:「じいちゃん。なんで三八式歩兵銃がなかったの?砲兵にも持たせたらいいのに」
    祖父:「野砲隊一個小隊に銃は2丁しかなかったよ。歩兵に銃を持たせると砲兵には持たせる余裕が既になかったんだ。」

    62 35 :2006/07/30(日) 22:15:17 ID:???

    確かに昭和十九年に編成された九十番台の師団では
    砲兵に小銃を配備する余裕は無いでしょうね。

    国端崎の洞窟陣地は、灯台周辺の洞窟を改造したものでしょうか?
    洞窟はやはり他の砲を設置した洞窟と地下で連結された、非常に強固なものだったのでしょうか?


    「当初野砲は国端崎に4門あったのですが編成替えにより、野砲が1門になりました。」
    「砲弾がどのように移動になったのか小隊長と分隊長しか把握していなかったと思います。」

    「野砲隊が国端崎守備を命ぜられたあとで新規で掘ったものでした」

    「他の隊が守備している洞窟とは連結していませんでした。」
    「千島一と呼ばれる洞窟陣地でした。そのおかげで生き延びました。」

    58 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 22:05:23 ID:???

    上の方に1200発とありますが、砲一門につき何発程度の砲弾が支給されていましたか?


    「通信担当だったので、支給されていた砲弾数は分かりません。分隊長は把握されておられたと思います。」
    「戦闘終結後、小隊長が1200発撃ったといっておりました」

    69 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 22:26:39 ID:???

    砲弾の数はわかりませんか、ありがとうございました。
    では、最も戦ってみて恐ろしかった兵器なり、武器は何でしたか?


    「マンドリンとチェコ式の自動小銃です。」
    「当時日本軍には個人が携行する自動小銃がなかったため、自動小銃は占守ではじめてみました」
    「三八式歩兵銃は単発でしたが、彼らの自動小銃は弾をばら撒くため大変おそろしい目にあいました」
    「もっとも鹵獲してからは逆に非常に活躍しましたが」

    61 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 22:13:09 ID:dvf6AktE

    軍隊生活は大変だったと思いますが、ふっと気が休まるようなときなんかはあったんでしょうか?


    「直接戦闘はありませんでしたが、カムチャツカから飛来するアメリカの戦闘機が爆弾を毎日のように投下していくため心の休まるときはありませんでした・・・」

    67 35 :2006/07/30(日) 22:23:48 ID:???

    守備隊生活の時は、どのような食生活をしていましたか?
    行者ニンニクとか、トド肉とかを食べたことはありますか?


    「支給された食料しかありませんでした・・・しかも定量の半分」
    「海岸から昆布をひろってきて不足分を補給しました」

    71 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 22:35:10 ID:???

    食事も少なかったとのことですが、隊員の方々の士気はどうだったのでしょうか?
    日本が負けるのでは、という予感などはありましたか?


    「負けるとか勝つとかは考える余裕はありませんでした」

    俺:「そうすっと、戦闘が終結して気が抜けてしまったとか?」
    祖父:「気が抜けるも抜けないも、すぐに捕虜になったので気が休まらなかったよ」
    祖父:「捕虜は全員銃殺されると思い込んでいたしな」

    「シベリアへ行った人々は大変だったと思いますが、私がカムチャツカへ抑留されたのは幸いでした」
    「130名中、栄養失調で1名、夜間に小便しにいって銃殺されたのが1名。抑留された人々の中では被害がかなり少なかったと思います。」

    75 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 22:44:20 ID:IK2Drpmr

     占守島守備隊の総兵力って、どの程度だったのだろう? 
     第九一師団の全力?


    「第九一師団のほぼ全数、約3万。」
    「あと飛行隊と海軍がいました。こちらの兵力はわかりません。」

    79 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 23:02:18 ID:U1nAaRxN

    どのようにして戦闘に入ったのですか?
    いきなり奇襲上陸され、どう思ったのかも聞きたいです。


    「既に洞窟の周囲は包囲されており、武装解除があと1日遅れていたらソ連の主力がやってきて火炎放射器で殺されていたかも知れません」

    「日本が降伏したのは8月15日。その1週間ほど前。満州で戦闘が始まったころ、ロシアの極東艦隊が占守の沖を通過していきました。おそらく防衛の状況を監視して行ったのだと思います」
    「戦闘が始まったのが日本が敗戦した3日後の18日。午前0:30ころ。ロシア軍が竹田浜に上陸してきました。」
    「深夜にたたき起こされ、濃霧のため、エンジンの音が聞こえるというだけで他になにも分かりませんでした。」
    「事前に想定していた上陸地点に発砲したところ、上陸用舟艇が炎上し周囲の状況が分かってきました。」
    「ただし、発砲する前にソ連軍が既に1000人程度上陸していたらしいです。それは内陸へ侵攻していたらしいです」
    「戦闘に突入した時点ではソ連軍かアメリカ軍かわかりませんでした。」
    「あとから考えると、最初のソ連艦隊が沖を通過したのはそのための状況偵察だったのだなと思います」

    80 35 :2006/07/30(日) 23:03:17 ID:???

    カムチャッカではどんなことをして働いていたんですか?
    強制収容所で楽しかったことは?


    「カムチャツカでは主に牧草かり、あと薪切り、ごくまれに農業にも従事しました。」
    「楽しかったのはカムチャツカの温泉(露天風呂)に入ったことです。」
    「もっともその温泉も3ヶ月に1回程度ですが。その後、ドラム缶を利用して風呂を作りました。こちらは1週間に1度程度は入れました。」

    81 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 23:05:01 ID:IK2Drpmr

    15日以降武装解除の準備をしていたそうですが、どの程度まで進んでいたの?
    戦闘終了後のロシア兵の態度は? 暴行等はあったのですか?


    「国端では司令部から離れていたために命令が届かず、作業はまったく進んでいませんでした。」
    「18日時点では敗戦についてもまったく知りませんでした。あとで15日が敗戦だったとしり本当に驚きました」

    「自動小銃を構えて監視されていたので態度はよくわかりません。言葉がまったく通じないため小便することもできない状況でしたから」
    「逃げようとしたり、勝手な行動をとろうとすれば射殺される危険がありました。普段はそのようなことはありませんでした」
    「一番困ったのは言葉が通じなかったことです。当初は言葉がまったく通じなかったため、カムチャツカではソ連側も作業支持をまったく伝達できず、双方困っていました」
    「そのうち、ソ連側に英語がすこしできる将校がやってきたり、私が満州にいた時分にかじったロシア語で通訳のようなこともやったりしました。」

    90 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 23:32:06 ID:???

    収容所の食事はどのようなものでしたか?


    「最初のうちは、1日に黒パン一切れとカーシャが缶詰で2つ程度でした。」
    「一番困ったのが、樺太に移ってからですが、小麦粉の代わりに日本製の粉味噌を配給されたときです」
    「おそらく、どこかで発見されたのでしょう」

    「向こうはこれでパンが作れると思い込んでおり、これ以外に配給されませんでした」
    「仕方がないため、近くの海岸から昆布などを拾ってきて味噌汁をつくって飲みました。」
    「あのころが一番健康を害したと思います。」

    97 第一砲兵隊 ◆Gdq4ZoFWsE :2006/07/30(日) 23:50:03 ID:mkR968jk

    そろそろ夜もふけてきたので、解散としたいと思います。
    祖父も非常に楽しかったと言っております。

    皆さん、夜遅くまでお付き合いいただいてありがとうございました。
    また機会がありましたらよろしくお願いします。

    なお、もしこの手の話に興味がありましたら、祖父が編纂した資料を無料で配布いたします。
    noroneko7@gmail.com
    までメールをください。追加の質問などでも結構です。

    それでは皆様、お休みなさいませ。

    98 第一砲兵隊 ◆Gdq4ZoFWsE :2006/07/30(日) 23:50:40 ID:mkR968jk

    お、失礼しました。最後の質問にお答えします。

    94 名無し三等兵 :2006/07/30(日) 23:46:52 ID:???

    無礼を承知でお聞きししたいのですが。
    捕虜になられて抑留されたとき祖国や天皇陛下に対して恨みを
    覚えたことはありませんでしたか。
    抑留中は何か希望が持てるような出来事はありましたか。
    よろしくお願いします。


    「当時はそれが当たり前であったため、そのようなことは考えませんでした。」

    「全員何らかの形で栄養失調にはなりました。なくなった方は一人しかいませんでしたが・・・」
    「栄養状態は最後まで改善されませんでした・・・・・」

    みなさま、また機会がありましたら、よろしくお付き合いくださいませ。
    本日はまことにありがとうございました。





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